導入──顧問先のM&Aで起きた、ある失敗
ヒスイです。
ある日、顧問先の製造業(年商3億円・従業員30名)が、M&Aで会社を売却したいと相談に来ました。
買い手候補が当初想定していた評価は、「時価純資産+営業利益×3年分」という、いわゆる年買法に近い考え方でした。営業利益2,000万円の会社であれば、純資産に加えて6,000万円相当ののれん評価が見込まれるイメージです。
ところが、デューデリジェンスの過程で問題になったのは、貸借対照表(BS)に無形固定資産がないことそれ自体ではありませんでした。重視されたのは、独自技術やブランド、ノウハウについて、権利化・契約管理・秘密管理が十分にできているかです。
この会社には、社長が20年かけて磨いた独自の金属加工技術があり、その技術を背景に大手メーカーから指名発注も受けていました。
しかし、DDでは「特許・商標の登録状況が不十分」「技術ノウハウの管理体制が不明確」「属人性が高い」と見られ、結果として、再現性や承継可能性に対するリスク評価が強まりました。その結果、当初よりも低い倍率で見直され、想定していたのれん額との差が大きく開いてしまったのです。
中小M&Aでは、顧客基盤、収益の安定性、人材定着、属人性、契約関係、知財の保護・管理状況などを総合的に見て評価が決まります。知財だけで企業価値が決まるわけではありません。
ただし、「強みはあるのに、保護も整理もされていない」状態は、確実に減点要素になり得ます。
税理士の皆さんが日常業務で見ている勘定科目や申告書の情報から、「見えない知財資産」を発見する方法と、それがなぜ顧問先の企業価値と税理士自身の評価を同時に引き上げるのかをお伝えします。
本論1──なぜBSに知財が映らないのか:会計基準の構造的な理由
まず前提を簡潔に確認します。
企業会計審議会「研究開発費等に係る会計基準」は、研究開発費について「すべて発生時に費用として処理しなければならない」と定めています。
つまり、社長が10年かけて開発した独自技術のコストは、多くの場合、すでに過年度の損益計算書(PL)に費用として落ちています。BSにはその価値が直接は残りません。
研究開発費は、すべて発生時に費用として処理しなければならない。
企業会計審議会「研究開発費等に係る会計基準」(金融庁)
もっとも、ここには注意点があります。
同じ会計基準でも、研究開発に該当しないソフトウェア制作費については、一定の場合に無形固定資産として計上されることがあります。したがって、「自社で生み出した無形の価値は一切BSに載らない」とまで言い切るのは正確ではありません。
それでもなお、中小企業の競争力の核になっている技術・ノウハウ・ブランドの多くが、会計上は見えにくいという構造は変わりません。
一方、他社から購入した特許や商標などは、取得原価で無形固定資産に計上されます。
税務上の耐用年数は、減価償却資産の耐用年数等に関する省令(別表第三)で、たとえば特許権8年、商標権10年、実用新案権5年、意匠権7年とされています。
| 権利の種類 | 税務上の耐用年数 | 備考 |
|---|---|---|
| 特許権 | 8年 | 法的存続期間は出願から20年 |
| 商標権 | 10年 | 登録から10年(更新可能) |
| 実用新案権 | 5年 | 法的存続期間は出願から10年 |
| 意匠権 | 7年 | 2020年4月以降の出願は出願日から25年 |
なお、ここでいう税務上の耐用年数と、法律上の権利存続期間は別物です。
たとえば意匠権は、税務上の耐用年数は7年ですが、法的な権利存続期間は制度改正により、2020年4月以降の出願では出願日から25年となっています。
つまり、「何年で償却するか」と「何年権利が続くか」は別の話です。
自社で生み出した知財ほどBSに載りにくい。
しかし、企業の競争力を支えているのは、まさにその「自社で生み出した知財」であることが少なくありません。
税理士の皆さんが毎年見ている決算書は、顧問先の知財について「何も語っていない」のではなく、費用処理という形で、その痕跡を間接的に残している。
そう捉えると、見える景色が変わります。
本論2──「見えない知財」が引き起こす3つの実害シナリオ
シナリオ1:M&A・事業承継での企業価値の過小評価
中小企業庁「事業承継ガイドライン」は、承継すべき経営資源として、「人(経営)」「資産」に加え、知的資産などの目に見えない資産にも留意が必要だとしています。
実際、経営理念、技術、技能、ブランド、顧客との関係、組織力といった要素は、BSには十分に表れませんが、承継後の収益力を大きく左右します。
事業承継に際しては、目に見える資産だけでなく、経営理念、技術、技能、ブランド、顧客との関係、組織力といった知的資産にも留意が必要である。
中小企業庁「事業承継ガイドライン」(中小企業庁)
中小M&Aの現場では、時価純資産に営業利益の複数年分を加味するような簡便評価が使われることがあります。
ただし、その倍率は一律ではありません。顧客基盤、収益の安定性、属人性、人材定着、契約関係、知財の保護・管理状況などを総合して決まります。
したがって、特許や商標の登録がないことだけで機械的に評価が下がるわけではありません。
しかし、独自技術やブランドがあるにもかかわらず、権利化も秘密管理もされていない状態は、買い手から見ると「属人的で承継しにくい」「再現性が低い」「流出リスクがある」と映りやすく、結果として倍率の引下げ要因になり得ます。
もし顧問先に事業承継やM&Aの予定があるなら、税理士の皆さんが事前に
「この会社には、会計上は見えないが、整理・保護すべき知財がありそうです」
と指摘できるだけで、適正な評価につながる可能性があります。
シナリオ2:商標の先取り登録──小さな未対応が大きな損失を生む
日本の商標制度は、基本的に先願主義です。
同一または類似の商品・役務について使用する同一または類似の商標について、複数の出願が競合した場合、原則として最先の出願人が優先されます。
もちろん、実務上は例外論点もあります。
不正目的の出願、周知商標との関係、先使用権など、一定の場合には単純な「早い者勝ち」で終わらないこともあります。
それでも、未登録のまま放置していると、第三者に先に出願されて紛争化するリスクがあるという点は変わりません。
特許庁は「自らの商標を他人に商標登録出願されている皆様へ(ご注意)」という注意喚起を公表しています(2016年5月17日初出、2018年6月8日更新)。
一部の出願人による大量の先取り的出願が問題化していたことを踏まえたものです。
商標を1区分で出願・登録する場合、特許庁に納める手数料は、出願時12,000円、登録時32,900円で、合計44,900円です。
専門家に依頼する場合は、別途報酬がかかりますが、中小企業でも比較的着手しやすい水準です。
一方で、他人に商標を先取りされた場合には、社名や商品名の変更、看板やパッケージの差し替え、Webサイトや広告物の改修、取引先への通知、名刺・封筒・販促物の再作成といった対応が必要になることがあります。
企業規模や変更範囲によっては、対応コストが数百万円規模になることもあります。
顧問先の決算書に、デザイン費、ロゴ制作費、ブランディング費用、広告宣伝費が計上されていたら、
「そのブランド名やロゴは商標登録していますか?」
と一言確認するだけで、大きなリスクを減らせる可能性があります。
シナリオ3:営業秘密の漏えい──「知っている人だけが知っている」では守れない
IPAが2025年8月29日に公表した「企業における営業秘密管理に関する実態調査2024」(2025年1月実施)によると、過去5年以内に営業秘密の漏えい事例・事象を認識している企業は35.5%でした。
2020年度調査の5.2%と比べると大きく上昇しています。
ただし、ここには重要な注意点があります。
IPA自身が、2020年度調査は郵送アンケート、2024調査はウェブアンケートであり、調査方法の違いが経年比較に影響している可能性があると明記しています。
したがって、「単純に7倍に増えた」と断定するよりも、営業秘密漏えいの認識がかなり広がっていると読む方が適切です。
同調査では、漏えいルートの上位として以下が挙げられています。
- 外部からのサイバー攻撃等:36.6%
- 現職従業員等のルール不徹底:32.6%
- 現職従業員等による金銭目的等の漏えい:31.5%
外部攻撃だけでなく、内部要因も大きい点は見逃せません。
不正競争防止法は、営業秘密を「秘密として管理されている」「有用である」「公然と知られていない」情報として定義しています。
いわゆる、秘密管理性・有用性・非公知性の3要件です。
ここで重要なのは、
「社長しか知らないノウハウがある」こと自体では、法的保護は十分ではない
という点です。
書面化・アクセス制限・管理ルールなどを通じて、客観的に「秘密として管理されている」と言える状態が求められます。
税理士の皆さんが直接その体制を設計する必要はありません。
しかし、顧問先との会話で、「社長しか知らない製造条件はありますか?」「その情報は誰が見られる状態ですか?」「マニュアルやデータとして管理されていますか?」と聞くだけで、顧問先が自社のリスクに気づくきっかけになります。
本論3──勘定科目・申告書から逆引きする「知財発見チェックリスト」
ここからが、税理士の皆さんにとっての実務パートです。
新しい調査をゼロから始める必要はありません。
毎年の決算書や申告書の中に、すでにヒントは埋まっています。
大切なのは、「知財の専門家になること」ではなく、知財の兆候を見逃さないことです。
チェックリスト:勘定科目・申告書と知財リスクの対応表
PLの勘定科目から見る
「研究開発費」「試験研究費」
これらが計上されている場合、その成果について、特許出願、実用新案、営業秘密管理など、何らかの保護策が検討されているかを確認する余地があります。
研究開発の成果が必ずしも特許向きとは限りませんし、失敗に終わることもあります。
それでも、費用処理されているからこそBSに現れない技術資産の痕跡として重要です。
また、研究開発税制の適用有無は、法人税申告書の税額控除関係の明細書から確認できます。
研究開発税制を適用しているなら、その裏にある技術成果の保護状況を聞く自然な導入になります。
なお、使用する別表番号は事業年度により変わり得るため、最新様式の確認が必要です。
「広告宣伝費」
この中に、ロゴデザイン料、ネーミング費用、ブランディング費用などが含まれていれば、商標登録の有無を確認する契機になります。
「支払ロイヤリティ」
他社の知財、ブランド、ノウハウ、ソフトウェアなどを利用している可能性があります。契約条件、更新期限、使用範囲を確認すべき項目です。
「受取ロイヤリティ」
自社が何らかの知的財産、ブランド、ノウハウ、または契約上の使用許諾の仕組みを持っている可能性があります。
必ずしも「自社が登録知財を保有している証拠」とは限りませんが、少なくとも権利の帰属や契約内容を確認すべきシグナルです。
「外注加工費」
外注先に製造ノウハウが流れていないか、図面・条件・手順書の管理がどうなっているかを確認するきっかけになります。
「人件費」
技術者や特定社員への依存度が高い場合、ノウハウの属人化リスクを疑う視点が持てます。
BSの勘定科目から見る
「無形固定資産」
ここに特許権、商標権、ソフトウェアなどが計上されていれば、その内容を確認するのはもちろん重要です。
ただし、逆に無形固定資産がゼロだからといって、知財がないとは言えません。
むしろ、PL上に研究開発費やブランド関連費用があるのに無形固定資産がない場合は、権利化・秘密管理・契約管理を検討すべき知財が潜んでいる可能性があります。
「ソフトウェア」
ソフトウェアが計上されている場合、そのソフトに関する著作権、ライセンス、場合によっては特許出願の余地がある技術要素の有無を確認する契機になります。
ただし、ソフトウェア資産計上があるからといって、直ちに特許化可能な技術があるとは限りません。
法人税申告書から見る
別表十六(減価償却資産の明細)
特許権、商標権、意匠権などの記載が見当たらない場合、少なくとも税務上の償却対象として把握されていない可能性が高く、権利取得の有無を確認する手がかりになります。
ただし、記載がないことだけで「何も取得していない」と断定するのは避けるべきです。
確認の入口として使うのが適切です。
税額控除関係の明細書
試験研究費に係る税額控除の適用があれば、その企業が一定のR&D活動をしていることは確かです。
知財の保護・管理状況を確認する合理的なきっかけになります。
顧問先に聞く5つの質問
書面確認に加えて、次の5つの質問を面談で投げかけてみてください。
専門知識をひけらかす必要はありません。むしろ、顧問先の言葉で”強み”を語ってもらうことが重要です。
特許出願の候補、営業秘密として守るべきノウハウ、属人化している技術の存在を発見できます。
特許庁「特許行政年次報告書2025年版」によれば、内国人の特許出願件数に占める中小企業の割合は約16%にとどまります。
つまり、多くの中小企業では、強みがあっても権利化まで至っていません。
未登録であれば、先取り出願やブランド紛争のリスクを説明できます。
営業秘密の3要件のうち、とくに秘密管理性の確認につながります。
属人化と承継リスクを一気に可視化できます。
事業承継やM&Aの準備としても有効です。
潜在的な知財侵害リスクや契約上の問題を把握する入り口になります。
知財保護にかかる費用の目安
「知財保護は高い」と思われがちですが、顧問先にざっくりした費用感を示せるだけでも、意思決定はかなり進みます。
商標登録の費用
| 項目 | 金額(1区分) |
|---|---|
| 出願時手数料 | 12,000円 |
| 登録時手数料 | 32,900円 |
| 合計 | 44,900円 |
登録後は10年間有効で、更新可能です。
専門家報酬を加えても、中小企業にとって比較的取り組みやすい領域です。
特許出願の費用
| 項目 | 金額 |
|---|---|
| 出願時手数料 | 14,000円 |
| 出願審査請求料 | 138,000円+請求項数×4,000円 |
ここで注意すべきは、出願しただけでは特許権にならず、審査請求が別途必要だという点です。
さらに、特許庁には、中小企業・小規模企業・一定のスタートアップ等を対象に、審査請求料や特許料(1〜10年分)の軽減制度があります。
軽減率は対象区分により1/2、1/3、または1/4で、申請要件や件数制限の確認が必要です。
審査請求から一次審査通知まで:約9.1か月
審査請求から権利化まで:約13.0か月
また、早期審査制度を活用できる場合には、より短期間で審査が進むことがあります。
こうした数字を示せるだけでも、顧問先にとっては
「知財は遠い世界の話ではなく、現実的に検討できる投資だ」
と理解しやすくなります。
まとめ──3つの要点と、明日からの1アクション
第一に、日本の会計基準では、自社開発の技術やノウハウの多くが費用処理されるため、「無形固定資産ゼロ=知財がない」ではありません。
第二に、見えない知財を放置すると、M&A・事業承継での評価低下、商標の先取りやブランド紛争、営業秘密の漏えいといった実害につながる可能性があります。
第三に、税理士の皆さんは、毎年見ている決算書や申告書から、知財の兆候を逆引きできます。
そして、たった5つの質問で、顧問先の隠れた資産とリスクを浮き彫りにできます。
次の顧問先訪問で、「研究開発費の中身」と「社名・主力商品名の商標登録の有無」を聞いてみてください。
その一言が、顧問先の見えない資産を守る第一歩になります。
そしてそれは、税理士としての役割を、単なる申告実務から経営資源の発見者へと一段引き上げるきっかけになるはずです。
参考文献
- 企業会計審議会「研究開発費等に係る会計基準」(金融庁)
- 中小企業庁「事業承継ガイドライン」(中小企業庁)
- 不正競争防止法(e-Gov法令検索)
- 特許庁「産業財産権関係料金一覧」(特許庁)
- 特許庁「特許料等の減免制度」(特許庁)
- 特許庁「自らの商標を他人に商標登録出願されている皆様へ(ご注意)」(特許庁)
- 特許庁「特許行政年次報告書2025年版」(特許庁)
- 特許庁「特許行政年次報告書2021年版」(特許庁)
- IPA「企業における営業秘密管理に関する実態調査2024」概要(IPA)
- 国税庁「No.5444 中小企業技術基盤強化税制」(国税庁)
- 減価償却資産の耐用年数等に関する省令(e-Gov法令検索)
- 特許庁「令和元年意匠法改正特設サイト」(特許庁)